一回の放送は・・・

一回の放送は1分30秒!


昼間は電話回線が混雑するので、午後7時から翌朝8時までの提供だった。


docomo 大和サイドからみても驚きのことですね。


・・・その後、昭和34年に証券会社の「株式市況」、昭和35年にデパートの「商品案内」など、年々番組数はふえつづけ、さらに昭和46年、初のコマーシャル入りのテレホンサービスが開始されると、テレホンサービス専業会社もぞくぞく出現し、番組はますます増加のペースを早めた。


昭和63年には番組数が2万6400本、一日平均の利用回数は220万回に達するなどたいへんな盛況でした。

テレホンサービス


59万4000回。


これは、平成2年3月に調査した競輪・競馬レース結果テレ.ホンサービスへかけてきた電話の1日平均回数です。


2位の株式・為替案内が1日20万5000回だから、世の中にいかにギャンブラーが多いかおわかり願えるでしょう。


「テレホンサービス」のはしりは、天気予報と時報で、それぞれ昭和29年、30年にスタートしたが、日常生活に密着しているため、一日当たりそれぞれ90万回、100万回と利用回数の東西の横綱を占めています。


両サービスともいわば「官製」だが、民間のサービスとしては、昭和32年に新聞社がニュースサービスを実施したのがはじまりです。

そして今ではドコモ 大和などの携帯で、いつでもどこでも情報を得ることが可能になったのです。


すばらしいことですよね。


ケーブル火災

ケーブル火災は、当初、復旧まで1カ月以上はかかるだろうと予想されていたが、実質7日間で全面復旧と超スピードで復旧することができた。


これは、交換機が無傷であったこと、火災になった「とう道」が再利用できたことも大きいが、それよりもなによりも大きかったことは、火災発生後、ただちに全国各地からベテランの応援者とケーブルなどの資材が確保できたことだ。


これは、全国のネットワークが一社で一元的に管理されていたからこそ、「スワッ、天下の一大事」ということで人、物が集まり、全社をあげて復旧に取り組むことができたためでしょう。


「台風17号による豪雨災害」「世田谷通信ケーブル火災」、またそれ以外で記憶に新しい新潟大地震、島根豪雨災害などにしても、全社の総力を結集すると、すごい力が発揮できるなという実感がする。


ネットワークも災害に強くはなったが、今後ともこういう大きな被害が起こらないという保証はない。


もしも、全国のネットワークが地域ごとに、別々の会社によって、別々の方式等によって管理・運営されていたならぼ、これほど早く復旧することができたでしょうか。


いまさらながら、全国ネットワークの一元的管理の重要性を再認識させられたのだ。


その重要さが今のdocomo 大和などの携帯電話にいきづいているのです。

電話が使えなくなった感想

「電話が使えなくなった感想」を聞いてみると、「電話の便利さを改めて知った」が57%でトップ。


二番目は、意外にも逆に「静かで落ち着いた」(19%)でした。


日ごろ、電話に煩わしさを感じている人もけっこう、多くいることを示していました。


男性に、「世の中から取り残されたような気がした」が多かったのにたいして、女性は「友人とおしゃべりができなく、イライラした」が多く、日ごろ電話に接する男女の感覚の差がよくわかる。


また、「電話をかけられない不便さはなんとかなったが、ほかから電話(情報)がはいらないと思うと不安になった」「電話が水、空気と同じぐらい当たり前になっていたことがわかった」という声に集約されるように、いまや電話はわれわれの生活に欠かすことのできない社会生活の一要素なのだ。


そしてきっと、ドコモ 大和などの携帯電話も使用できなくなったら、昔以上に不便を感じることは否めません。

調査を見てみると・・・

東大都市工学科の調査を見てみると、「電話が不通となったことを知ったのち、どんな行動をとったか」については、「なにもせず、そのままにしていた」が73%と圧倒的に多かった。


しかし、自営業者の多くは、「電話のつうじるところを探して、電話局に問いあわせてみようとした」と答えており、電話なしでは商売ができないせっぱつまった気持ちがよくわかるのだ。


「不通の間、利用したもの」では「特設公衆電話を利用した」が50%ともっとも多く、ここでも自営業の利用が目立った。


また、この特設公衆電話には、「深夜ともなると、若者がオートバイに乗って電話をかけにくる。相手はガールフレンドらしく長々と電話をする。それも毎晩、毎晩。電話が使えなくて申しわけないと思っていたが、どうもナンバーからするとほかの地域かららしい。電話が無料ということがわかって、ちゃっかりとオートバイ・ラブコールと便乗していたのだ。こちらはムカッとくるが怒るに怒れず、ひたすら寒さを我慢していた」


とあとから担当者が語ってくれた。


しかし、どちらにしても、多くの人に、docomo 大和の携帯電話のようにこの特設公衆電話は利用されたのだ。

電電飛脚の第一号

電電飛脚の第一号は、「きょう、風邪で休みます」という中学の生徒から学校への連絡でした。


大半が「折りかえし電話ください」という内容であったが、「お米を配達して」「おソバの出前をお願いします」というものから、「洗濯機が故障したので見にきて」「忘年会の出欠の返事を早くして」というものや、


なかには「おばあちゃんが亡くなりました。お通夜は・・・」とか、ロサンゼルスから「荷物が着きました。ありがとう」という国際依頼電話もあり、日ごろの電話のさまざまな使われ方が浮きぼりにされた。


ところで、突然電話が使えなくなって、地域住民はどんな対応をしたのだろうか・・・。


そして、もしドコモ 大和だったらどうなっていたでしょう・・・。


伝言取り次ぎ

docomo 大和の大元である電電公社では、「一刻も早く、一つでも多く、あらゆる手段を尽くして」と復旧を急ぐとともに、代替手段として、ただちに隣接する目黒・渋谷局等からケーブルを引きこんだり、通信衛星のアンテナを積んだ「通信衛星搭載車」や「自動車電話搭載車」を出動させ、道路沿いに、空き地につぎつぎと臨時の無料電話(特設公衆電話)を架設した。


また、電話可能地区から電話不通地区への連絡方法として、「伝言取り次ぎ」を行った。


これは、「伝言受付センター」で伝言内容をメモし、配達するサービスです。


現代版の飛脚であることから、「電電飛脚」とも「現代版飛脚」ともいわれた。

当時・・・首都東京で思わぬことが

・・・天災が忘れられかけたころ、首都東京で思わぬ事故が発生した。ドコモ 大和としても驚きかと思われます。


・・・「世田谷通信ケーブル火災」です。


昭和59年11月16日金曜日正午ごろ、東京・世田谷区の世田谷電話局前にある通信ケーブル専用の地下道(とう道)から突然、黒煙が吹きだし、火災が発生した。


たまたま燃えた場所が電話局からまとまって出たところのケーブル群で、動脈ともいうべき箇所だったために、管内8万9000加入の電話がウンともスンともいわなくなってしまった。


しかも、このケーブルのなかには、110番、119番や銀行のオンラインシステムの専用線もあったため、110番、119番の緊急電話も不通になる一方、M銀行では全国のオンライン網が壊滅し、全国の各支店でのカードの引き落としができなくなったり、区役所の出張所では、戸籍謄本や印鑑証明書の発行に支障が生じたり、ソバ屋さん、寿司屋さんでは、出前の注文がはいらない、一人暮らしのお年寄りに連絡がとれないなど、情報化社会での情報通信の途絶が、どれだけ社会を混乱させるかの不幸な実例を見せてくれた。

ここで活躍したのが・・・

前回の続きですが、ここで活躍したのが、日本ライン下りの観光船と聞いたら驚かれるでしょう。


冠水した地域で資材等の運搬に威力を発揮したのが船でした。


ゴムボートも使ったが、ゴムボートは、ちょっと木切れに引っかかると切れてしまう、物と人を乗せるとへこんで動かない、流れの速いところでは進めない、風が出てくると使えなくなります。


鵜飼いの船を借りようとしたが、人命救助のほうが先だということでまわしてくれない。


なんとか見つけだしたのが、30人乗りの日本ライン(木曾川)下りの船です。


・・・とまあ、ドコモ 大和とは直接関係はありませんが、電話つながりということで、次回に続きます。

前回の続き

前回の続きですが、ここで活躍したのが、日本ライン下りの観光船と聞いたら驚かれるでしょう。


冠水した地域で資材等の運搬に威力を発揮したのが船でした。


ゴムボートも使ったが、ゴムボートは、ちょっと木切れに引っかかると切れてしまう、物と人を乗せるとへこんで動かない、流れの速いところでは進めない、風が出てくると使えなくなります。


鵜飼いの船を借りようとしたが、人命救助のほうが先だということでまわしてくれない。


なんとか見つけだしたのが、30人乗りの日本ライン(木曾川)下りの船です。


・・・とまあ、ドコモ 大和とは直接関係はありませんが、電話つながりということで、次回に続きます。